Page: 1/1   
原風景を訪ねて-5 「東京の空の下」



1964年(昭和39年)ラジオからは “アニマルズ” の「朝日のあたる家」が流れていた。
この年の10月10日、多くの日本国民が待ち望んだ「第18回 東京オリンピック」が開催された。

第二次世界大戦で焼け野原となった首都「東京」が、終戦からわずか19年目にして成し遂げたアジアで初めての「オリンピック」。
当時、一般家庭にもテレビが普及し、国民の多くが白黒テレビの前で、今かいまかと待ちわびた開会式。この日を祝福するかの様な雲ひとつない晴れ渡った空の下、世界93の国と地域から参加した選手団と7万2000人の大観衆の元、霞ヶ丘の「国立競技場」で高らかに鳴り響くファンフーレと共に「日本人」の新たな歴史が始まった。

原子爆弾が投下されたその日、1945年8月6日「広島」に産まれた19歳の最終聖火ランナー “坂井義則” 選手が聖火台へと駆け上がる姿は、まさに日本復興の象徴だった。
世界中の青空を「東京」に集めた様な紺碧の空に、ジェット機が描く五輪の輪と赤々と燃え上がる聖火。同じ「東京」の空の下、歴史の起立点から十数キロの地点で11歳の少年が眼にしたものは「近代日本」の黎明期そのものだった。

この「東京オリンピック」を境に途上国だった「日本」は先進国への仲間入りをし、その後、自然破壊を繰り返しながら奇跡ともいえる発展を遂げ、世界屈指の経済大国へと突き進んで行く。時代が渦を巻いていた。 小学校五年生の秋のことだった。

東京・霞ヶ丘 17:56 / 1964




| papier-colle | 00:27 | - | trackbacks(0) |
原風景を訪ねて-4「東京・対岸の異国」


川崎から対岸の大田区矢口に移り住んだのは、日本が高度成長期まっただ中の1962年(昭和37年)春。その昔は東京と神奈川を結ぶ “矢口の渡し” があったことで知られ、江戸浄瑠璃で有名な平賀源内作「精霊矢口渡」の舞台にもなった場所である。
わずか二キロ程度の距離を引っ越しただけだが、その頃は川をまたいで東京側に移り住むことがまるで外国にでも移住するかのような、言い知れぬ不安を幼心にも感じていたことを覚えている。
当時の日本は国策 「東京オリンピック」 を目前に控え、国民は翻弄されつつも、一丸となって一つの方向に向って突き進んでいた時代。
“東京” はまさにその中心に位置する歴史的な起立点だった。TVからは相変わらずアメリカの眩いばかりのホームドラマやアニメーション番組が連日のように放映され、日本には存在しないスーパーヒーロー達が画面狭しと大活躍していた。
日常生活との大きなギャップを感じつつ、
それでもなんの疑問も抱かずに憧れのアメリカの文化をシャワーのように浴びる日々。当時の都会の子供たちのほとんどは、アメリカを陸続きの隣国のように感じて育ったはずだ。

経済優先のその時代、境界線の川は汚れきっていた。異臭を放つ屁泥の川には水上生活者も多く、
“川” を取り巻く独特の文化がそこにはあった。
同級生の女の子の家がやっていた “貸しボート屋”
や荷を運ぶ、焼き玉式の “ポンポン船” の音・・・。 まるでモノクロ映画のように哀愁漂う異国 「東京」 の情景が、懐かしい想い出と共に今だに脳裏に焼き付いている。

東京・矢口 14:25 / 1962




| papier-colle | 19:41 | - | trackbacks(0) |
原風景を訪ねて−3



六十年近い時間(とき)を隔てて、昔話の中に出てくる様な時間が止まった懐かしい場所。
東京都と神奈川県との県境をまたぐ「多摩川大橋」の石の欄干は、今も建設当時のままの威厳ある姿で存在している。この場所から僅か数十メートル上流の河川敷に建つ粗末な造りの官舎で生まれ、物心がつく三歳頃までをこの情緒的な光景を目にして育っている。

その頃の微かな記憶の中で一つだけ鮮明に憶えている情景がある。それはこの欄干から続く土手の上に
時折やって来る「玄米パン」売りの男の姿。晴れた日の逆光の土手を、真新しい一本の幟をたてた自転車に乗り、”玄米パンのほっかほかー”と甲高い売り声と共に通る、当時としては珍しいパン売りの姿が今も脳裏に焼き付いている。 その情景こそが遠い記憶の中に存在するまさに原風景そのもののような気がする。

戦後
のアメリカ占領下の元、日本永い歴史の中で育んできた独自の文化に対して急激な変化を強いられていく。先ずはアメリカ国内の余剰している小麦を数十年後の大量輸出を目論み、日本人の主食である米からパン食へと大衆を巧みに操作し、日本人の食文化そのものから変えようとする洗脳ともいえる政策が始まった。そして敗戦からわずか8年で実現したテレビ放映では、アメリカ人の夢の様な生活を日々映像を通して見せられ、敗戦国「日本」いっきに強国「アメリカ合衆国」の色へと染められていく。

川崎・幸 13:10 / 1956




| papier-colle | 23:50 | - | trackbacks(0) |
原風景を訪ねて−2



数十年ぶりに、川崎駅からバスに乗り、生まれ故郷の河川敷へ着いた頃は昼下がりだった。
この場所は、
多摩川の河口から八キロ地点の右岸、東京と神奈川を隔てる県境になる直ぐ近くには車が激しく往来する国道一号線(第二京浜国道)が通っている。その国道一号線をまたいだ50m程先の河川敷で生まれ、小学校三年生までをこの川崎市幸区周辺で暮らすことになる。
当時の日本は、敗戦から僅か十九年にして、オリンピック開催を目前に控えた高度経済成長の絶頂期。腐敗したの流れを中心に、八才の少年の全ての世界が廻っていた。
その頃の川崎といえば、猥雑な都市がもたらす貧困と暴力と悲哀に満ちた公害の町で有名だった。この土手は、子供達にとって都会の猥雑さから解放され、唯一自然を感じることができるオアシスのような存在だった。  父親は毎朝出勤前に、飼っていた山羊のために雨の日も風の日も土手の草を刈り、自転車の荷台に山のように積んで運んでいた・・・。
今も当時のまま、河川敷の中央に広がる「川崎競馬」の調教場、右奥には「ラジオ関東」(現RFラジオ日本)の鉄塔。この場に佇んでいると、懐かしい風景と風が現実を遠ざけ、幼少期へと自分をタイムスリップさせる。

時間が止まった土手の上で、
大震災で全てを喪失した北の大地のことを念った。生まれ育ったところが目の前に存在していることの幸せ。この場所を訪ねたことの意味を、改めて自分自身に問われている様な気がした。

川崎・幸 13:19 / 1961





| papier-colle | 14:03 | - | trackbacks(0) |
原風景を訪ねて-1


人は誰でも原風景を持っているらしい

太陽系第三惑星地球 日本国 神奈川県川崎幸区

うららかな風の中 生誕地はなにも変わらぬ姿で そこに存在していた

川崎・幸 13:05 / 1953



| papier-colle | 23:09 | - | trackbacks(0) |

Calendar

     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>

Profile

Search

Entry

Archives

Category

Others

Mobile

qrcode